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菅原克也『英語と日本語のあいだ』(講談社現代新書)は英語教育関連の本で、コミュニケーション偏重の英語教育に警鐘を鳴らす新書である。以前、学会で訳読についての著者の講演を聞いて興味を抱いたので購めたのだが、既に斎藤兆史氏や鳥飼久美子氏などによる類書が横溢する中、今敢えてこのような新書が上梓されたことの背景には、一昨年に話題となった「高校での英語の授業は英語で行う」という文科省の愚昧な方針に一言物申したい、という強い動機があったのかと思われる。著者はもともと文学畑の人間で、教育理論を科学的に実証するようなデータは持ち合わせておらず、むしろ、20年に及ぶ大学での講義経験から直観的な議論が展開されるのだが、それが結構、正鵠を射ているようにも見える。
核となっている考え方を取り出すと、日本という国の言語環境を考えた場合、事実上、英語を話すことを強制されるような場面は皆無に等しく、そのような中で語学力を高めなおかつそれを維持しようとするならば、読書という手段が最も効率的かつ効果的なのであり、その読書の方法論についても、最初から英語を英語で理解して速読するというようなことはどだい無理なのであるから、まずは、既にある程度出来上がっている母語の体系との比較対照を通じて、つまり、文法と語彙理解に基づく訳読によって、丁寧に精読する力を養うべきである、ということになる。
妥当といえば妥当な意見だが、このような勉強法は相当骨が折れるもので、かなりの強い動機がないと継続的することができない。馬車を馬の前に出すような話だと思われようとも、私にしてからが、大学受験というきっかけがなかったら、英語を語学をある程度ものになるまで継続して勉強することはなかったであろうというのは紛れもない事実なのである。仮にこれから先、公用語を英語にする企業や、就職試験でTOEICの点数基準を設けるような企業が増えていったとすれば、なるほど、それは確かに一つのインセンティブにはなるに違いないが、普通、人はまず目先の結果だけを求めて安易な「英会話教室」や「対策本」などに飛びつき、従来、中学や高校で教えられてきたような基礎の基礎が曖昧なままだからそこに何を積み上げようとしても結句砂上の楼閣に終わってしまう、というところに思い至る者ははごくわずかに過ぎないだろうし、否、よしんば気づいたとしても、他にも様々にやらなければならないことを抱えている状況で、中学レベルまで戻ってきっちりと英語をやり直そうとするほどの根性を絞り出せる人間が果たして何人いるというのだろうか、などというようなことを考えてくると、至極まともに思えるこの意見も、所詮は常日頃から東大生のようなどんなに嚢時と比して馬鹿になったと言われようとも平均的に見れば基礎学力も学習意欲も依然として抜群に高い学生を教えている人間の、とてつもなく普遍性を欠いた独りよがりにも思えてきたりもする。
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J.B.Bury: Freedom of Thought: A Historyは、上とは打って変わって現代の古典といってもいいほど古い本。以前から所有していたが、来年度担当する授業の一つの教科書に指定したので、読み直してみた。タイトルが示す通り、「思想の自由」が勝ち取られた過程をヨーロッパを中心に考察した興味深い一冊である。Buryは「思想・言論の自由」を人類史における一つの大きな達成であると考えており、現代の西洋社会では当然視されているこの自由がいかに多くの犠牲と熾烈な闘争の中で勝ち取られたものであるかを冒頭部で強調する。さらに、個々の人間が持つ知識の大半は、他者や外部の情報源から無批判に受け取られたものであることを認めつつも、その際に、実証可能な知識というものと実証不可能な知識というものを峻別する必要があって 、外部から間接的に聞いた情報を信じてもよいのは、その情報が実証可能な場合のみ、つまり理性によって確認できる場合のみであると指摘する。しかし、人類史の中では、ただただ権威に基づいて、実証不可能な信仰や考えが強制されてきたのであり、これらの思想が様々な宗教的、政治的目的にかなっているという事実から、理性を用いてこういった考えに異議を唱えようとするものは、つまり、「思想、言論の自由」を行使しようとするものは、宗教的、政治的利益の名のもとに様々な形で迫害、弾圧されてきたのである。権威が行使した「宗教的、政治的利益」の議論を、「思想・言論の自由」にそれを上回る公益があるとする議論によって理性が完全に打ち破ったのは19世紀になってようやくであり、そこにはギリシア時代の無意識な思想的自由の享受から、キリスト教と教会の台頭による自由の完全な弾圧、そして宗教改革とルネッサンスを経て、権威が徐々に解体され、啓蒙主義と科学的進歩、さらには新たな社会思想の出現によって理性が勝鬨を上げるまでの長きにわたる歴史が横たわっている。確かに、20世紀以降の西洋では、理性が完全に権威を圧倒したかに見える。しかし、権威の棺に最後の杭が打ち込まれたと考えるのはまだ早い。Buryはギリシア時代には広く認められていた「思想の自由」が中世以降、囚われの身となった歴史を鑑み、その自由を空気のように当然視する現代の風潮に警鐘をならし、再び振り子が振れることのないよう、なぜ、その自由が重要なのかを再確認しようと試みるのである。
イントロに続く本論では、「思想の自由」が空気の如く享受されていたギリシア時代から始まり、『ソクラテスの弁明』における鋭い直感が示されるものの、この時点ではその自由を擁護する明確な理論化までには至らなかったという点が明らかにされる。その後、ローマ時代に来世での救済を至上命題とし、それに比すれば現世の意義など取るにたりないとするキリスト教の台頭によって思想的自由は徹底的に打ち砕かれることになる。本書は中世や近世における思想的自由というものが宗教的自由と大いに重なっていたという観点から、教会の支配力からの理性の脱出の過程に相当の頁が割かれている。無論、デカルト、ロック、ヒューム、カント、コント、ヘーゲル、ミル、ダーウィンといった思想家たちそれぞれが果たした役割についても言及があり、中でも「思想・言論の自由」の擁護論の確立を扱った最終章ではミルの「自由論」の第二章の内容が要約され、ソクラテスの直感が2000年の時を経て論理的正当化に結実したところで、幕を閉じる。
20世紀以降の倫理学の観点からからは、ミルが言論の自由を長期的視点でみた功利主義によって正当化したことに議論の余地は残るものの、人間は無誤謬たり得ないという主張、そして真理とはそれに対する反論との不断の衝突を通してこそ、生き続けるという主張は今なお力を持つものである。
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西村賢太『苦役列車』は「中卒作家による芥川賞受賞作」と銘打たれた話題作で、中学を出てからあてもなくその日暮らしの生活を延々と続けてきた著者の、友人無し、恋人無し、安風俗まみれ、という惨憺たる青春時代を描いた半自伝的小説である。新潟に向かう新幹線の中で暇つぶしに読み始めたのだが、語っている内容は卑屈で不潔で鬱陶しいにもかかわらず、さすがの文章力と言うべきか、なんともこ気味良いリズムに流れて行く文字列に、思わず読みふけってしまうほどの強制力が潜んでいる。元来、文学が専門でもないし、偉そうに小説のあれこれについて説教を垂れるつもりなど毫もないが、この作品の語りには底しれぬ力があるように感ぜられる。小説を芸術の一形態として独自のものたらしめるのはやはり語りの技術であり、その力が漲る本書の文体は、純粋に小説を読むという行為を楽しませてくれる、自分も文章を綴りたいという強い欲求を惹起するタイプのそれであった。
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新潟から帰って来て八王子で列車を降りた時、都心との温度が平均して2,3度違うという噂がまことしやかに囁かれている八王子でさえ温かく感じられるのが、なんとも奇妙であった。出張の仕上げをするために大学に向かいまたすぐさま踵を返して駅に戻ってきた時も、まだそれほど寒いとは感じられなかった。疲れをとるべく、かねて気になっていたそごう8階の有隣堂の片隅で行われている古書セールに足を伸ばしたところ、以前神田の古本屋で興味を惹かれつつも結局求めずじまいになりそれ以来どういうわけかはたと見かけなくなった小栗虫太郎の『人外魔境』が目にとまったので、いつ読めるかわからんなと苦笑しつつも、逡巡せずに購入した。翌朝、バス停に並んでいて、いつもと変わらぬ寒さを感じ取り、虫太郎を読むならやはり温かいところがいいと、心に誓ったのだった。